春になって庭の花の芽が出はじめました。ほとんどの花の芽は出ましたが、その日の頃は
まだキキョウが芽を出していませんでした。キキョウは毎年最後に芽を出し、キキョウの芽が
出れば庭の花の芽は出揃います。
その日の朝、キキョウの芽はまだかと庭に出ていると、お隣の子供さんを見ました。「あれ、
今日は平日なのに学校はお休みなのかな。」と思いました。休みには訳があったのです。
それからしばらくして、お隣の長男さんご夫婦が見えました。
「母が亡くなりました」と言います。
「・・・・・・?」
「母が亡くなりました」とまた言います。
「・・・・・・? この人、何言ってるの?」
「母が昨日亡くなりました」と言います。
突然のことで、二週間が過ぎたのにまだ信じられません。正確には信じたくない避けて
通りたいというのが本当のところかもしれません。
奥さんはウォーキングをしていたので、庭の手入れをしているとよく出会い、おしゃべりを
しました。気持ちが通じ合える方でした。あちらが合わせてくれていたのかもしれませんが。
元気で亡くなるような人ではありませんでした。心不全とのことでした。
置き所のない気持ちを整理したくて、金井先生の著者「死者はほほえむ」を読みました。
タイトルに続く『瞑想者の死を想え』という言葉。この言葉の深い意味がずしりと乗し
かかってきます。個を超えた不変であり、普遍のもの。瞑想者としては、自分を失うまで
自分を捨て続けていくしかありません。